西嶋の地名と治水

西嶋を守ってきた「岩崎(やさき)」の崖
旧六郷町葛篭沢から見た西嶋の集落
「岩崎」の崖の上に鎮座する岩崎天狗社

地元の歴史/HISTRY

「西島」の地名と治水

 西島のように島のつく地名は山間にも多い。富士川沿岸をみても伊豆島(いじま 久成)・鹿島・鬼島・大島・波高島のように、島は元来水の力をもって淘り平らげた山間の地を意味することばであり、「水をめぐらした場所」の意からきている。久成の伊豆島(小学校所在地)もおそらく出島の宛字で、二つの渓谷をめぐらした合流点の扇状地であることに由来しよう。

しかし、「シマ寄合」のことばもあるように、水と直接関係のない地域でも、他から離れて孤立的に散在する村落をも、もとはシマとよんだ。早川町の硯島などはその類に属するといえよう。

西島のシマの生みの親は、まぎれもなく北に突き出た岩崎(やさき)であり、各村の御崎(みさき)に産土(うぶすな)の鎮守社が多いこともうなずけよう。郷土の誇る西島神楽も対岸の宮原と同様に地鎮(ちしず)め的信仰に深くかかわり発祥した神事芸能と推察できる。神楽の舞は両足を一度に大地から離さないのである。

対岸の岩間が、およそ540年前は富士川の水底にあったことは、旧岩間の庄の屋敷跡から上宿にかけた地下を一丈五尺(4.54m)も掘れば目白砂の地層で、水勢を防いだ聖牛(ひじりうし)の組木の現われたことでもうなずかれる。両越の渡から南に続く八丁余(872m)の竹やぶは、寛永年間(390年前)岩間代官秋山半右衛門のもと竹を植えて川瀬を絶ったなごりで、この工事以来宿場北方の山の手(当時の屋敷地)からおりて住むようになったといわれている。また享保7年(1722)再び岩間村で富士川の瀬回し工事をしたため、それでなくても水難に悩んだ西島が、出水のたびに畑屋敷が水びたしになったと宝暦10年(1760)の村差出帳に記され、岩崎から南に延びて敷幅三間(5.46m)・高さ九尺(2.72m)から一丈二尺(3.6m)におよぶ堤防(ていぼう)の普請、また竹林によって川瀬を絶ったことも古文書に明らかである。近くは明治40・43年の大水害に田畑四〇町歩(39.66ha/396、600㎡/12万坪)と四〇戸を押し流して、いまの旧国道近くは一丈五尺(4.54m)の断崖が生じ、ここを本流が流れたことは古老の説くところで、北海道に村から12戸が移住したのもこの時である。

(用語解説)

【淘り平らげる(ゆりたいらげる)】水の中で揺すりながら平坦にすること。

【シマ】独立したものの象徴としての「島」、縄張り

【産土】その者が生まれた土地の守護神を指す。

【岩崎】主に崖や水面に岩が突き出しているところを指す言葉。

【御崎】岬・崎(さき、みさき)は、などの先端部が平地などへ突き出した地形を示す名称。

【聖牛】日本3大急流の一つである山梨県の富士川水系における伝統的水防工法。

【瀬】河川の中で、流れが速く水深が浅い場所のことを指す。淵の対義語でもある。

【村差出帳】江戸時代の地方(じかた)文書の一つ。現在の市町村勢の要覧に当たる。

【甲斐・岩間代官所】寛永年間(1624年~1644年)頃に江戸幕府によって築かれた。天領を管轄するための代官所で秋山半右衛門、松本三太夫、松田勘左衛門、稲葉兵左衛門、野田三良右衛門、辻弥五右衛門らが代官を勤めた。後に甲府藩領となって代官所は廃止され、再び天領となったあとは、石和陣屋市川陣屋の管轄となっている。

(参考文献)

中富町誌 第二編町の歴史 地名の成り立ち 120頁~121頁より引用